なにかが道を
やってくる
茨城県北サーチ
なにかが道をやってくる 茨城県北サーチ
アーティストや研究者など国内外のゲストが参加者とともに、茨城県北の地を歩きます。歩き方はゲストによってさまざま。講師/聴講者という固定した関係性をほぐし、自然な対話が生まれる場をつくります。プログラム終了後、ゲストはその場所についてのテクストを残していきます。文化資源として、いずれその場所を訪れる人々への招待状となるべく、ウェブにアーカイブされます。
なにかが道をやってくる 茨城県北サーチ

第3期(2021年2月)の募集を開始しました

第3期(2021年2月) 募集

『「日立のユージン・スミス」を再び眺めて』大森 潤也

 まだ大学生だった一九九三年に、現在私が勤務する日立市郷土博物館で初めて写真家ユージン・スミスの作品に触れました。もちろん日立を撮っていたことにたいへん驚きましたけれども、なによりスミスの眼差しといいましょうか、彼が世界中のさまざまな状況に生きる人々へ向けた愛と畏敬の念のようなものに感じ入ったことが、その後に私がスミスを調べはじめるきっかけとなったと思います。そして一九九六年に東京都写真美術館で開かれた展覧会「ユージン・スミスが見た日本─沖縄・日立・水俣─」を観に行ったことによって、いつか必ず日立の写真で展覧会を企画したいと決意したのです。
 その後、様々な方のご協力を得て日立撮影について調査させていただき、一応の成果として二〇一〇年に展覧会を開催することができました。さらに追加調査を行なって文章も書いてはみたものの、日立の事柄にのみとらわれすぎて近視眼的になったり、またデータの面白さにハマってしまったりして看過していたことがなんと多いことか。二月二十二日にみなさんのご意見に触発され、気付いたことが多々ありました。どうもありがとうございました。
スライドの最後に、一九七一年にスミス夫妻が水俣の街を見渡す写真を映しました。その風景はどことなく日立の谷あいの工場群を彷彿とさせます。ちょうどその一〇年前、一九六一年のスミス来訪時には高度成長のただ中にあった日立ですが、二〇世紀初頭には煙害という大きな問題が起きています。一方戦後の水俣では、工業化が豊かな自然と人々をスポイルしていました。それぞれに全く異なる歴史を持つ土地どうしではあるものの、スミスの作品と活動を見ていると、「漁村」「工業」などのいくつかのキーワードとともに日立と水俣という二つの街が相似形をなすように思われるのです。
 スミスがどこかの時点でこのようなことを意識していたかどうかは定かではありませんけれども(どうやら少しはあったようですね)、日本において後期の充実した創作を行なったスミスは、自らの身体に砲弾の破片をのめりこませた日本および日本人への興味を越えた愛着と、偶然にも長く関わってしまったゆえの友情のようなものが輻輳した感情を抱いていたのではないかと私は推察しています。いみじくも異邦人ユージン・スミスが、日本という〈地域〉を映し出す鏡のような存在になったのだなあ、などと、ぼんやり考えています。
 日立には、大きく変わってしまったところと、あまり変わっていないところとがあります。どこの土地にも言えることでしょうし、至極当然のことのように思われますが、日立に暮らしているとかなりの割合で〈変わっていない〉に出くわすことが多いです。ユージン・スミスについてのあれこれをあらためて考え、みなさんとお話しできたことで、その思いを新たにした次第です。

大森 潤也 日立市郷土博物館学芸員
1970年、茨城県日立市生まれ。1996年から日立市郷土博物館の美術担当学芸員。主な研究分野は近現代絵画および日立・茨城の美術。主な担当展覧会は「画家たちの巴里」(1998)「近代花鳥画考」(2000)「加守田章二と竹内彰」(2006)「ユージン・スミス─東洋の巨人・日立をとらえた眼」(2010)「増田聡子展」(2015)など。大学時代にユージン・スミスの日立撮影を知って以降、その関連写真・資料を調査している。

「その土地の紙に」華雪

 知らない土地で作品をつくる機会がある。
 現地で出会い、ことばを交わした人の話に耳をすますことから、すべてがはじまる。

 中舟生駅から国道沿いを少し行くと、〈紙のさと〉があった。工房は、菊池ちあきさん、大輔さん姉弟とご家族で営まれている。
 広い店内に向かって「こんにちは」と声をかける。同世代であろう女性が出てこられた。「澤さん、怪我されたんですよね」とお互い苦笑いする。
 訪ねる日の前夜、今回の催しを企画したキュレーターの澤さんから骨折したと連絡が入り、思いがけず一人で行くことになったのだ。

「ところで、何やるんでしたっけ」。彼女のさっぱりした物言いに、どこか安らぐような気がした。

 紙漉きの技術は、中国で発明され、朝鮮を通じて日本に伝えられた。
 紙の原料となる楮は本来南方系の植物だ。そのためか昼夜の寒暖差が大きく、水はけもよい工房周辺の土地で育つ楮の繊維は短く細くしか成長しない。だがその楮を使った西ノ内紙は、強靭でしなやかな仕上がりになる。
 江戸時代、西ノ内紙は水戸藩奨励の専売品として江戸の町に運ばれ、濡れても字が滲まず、虫害にも強い丈夫な紙として、提灯や傘、大福帳と様々なものに用いられた。

 西ノ内紙の話をしてくれたちあきさんは、日本の紙漉きは地域や用途など、それぞれの求めに応じて楮という同じ原料であっても全く違ったかたちに仕上げてきた歴史についても教えてくれた。そして静かな声で言われた。
「人にも土地にも負担をかけず、あるものを最大限利用していくと、必要なものが残るんです」

 ワークショップでは、工房で随時体験ができるすき絵――漉いて乾かす前の紙の上に、染めた楮の繊維を乗せ、絵を描く技法――で字を書くことを提案した。
「それだと字に触れられますね」。ちあきさんのことばに紙漉きに携わる人の思いを感じた。
〈触る〉ための字には、「藝」の字を選んだ。

「藝」の字の成り立ちは、人が若木を植える姿を象り、木を植え、奉りながら育む様子だ。
漢字が生まれた古代中国では、書き順という意識はまだない。
「藝」の字の古い書体を実際に書こうとすると、若木の苗は既に植えられたのか、まさにいま植えようとしているのか、まず人がいて若木があるのか、若木があって、そこに人が寄り添っているのか、書き順によって情景が変わることに気づかされる。

 終盤、参加者の方から、「紙について知識を持たれているなら、西ノ内紙が他の地域の楮紙と違うところをもっと捉えてください」と声が上がった。
 西ノ内紙のことも、かつて西野内と呼ばれたこの土地のことも、菊池さん姉弟のことも私はまだなにも知らない。時間の過ごし方を間違えたことに気づいた。

 帰り際、菊池さん姉弟に、書を書きやすい紙を教えてくださいと、いまさらお願いした。ふたりは薄手の大判の紙を三種類選んでくださった。
 以前買い求めた西ノ内紙は、定番の厚いもの――普段、私が使わない紙だった。そのとき私は、西ノ内紙そのものを知ることにばかりに囚われ、字を書くときにどんな紙を使いたいかという、私と紙との関わりについて失念していた。
 ちあきさんの言葉がいまも耳に残る。
「紙は、私たちがどれだけいいものといっても、書き手との相性は別物。まずは試してみてください」。そう言って、彼女はにこりとされた。
 彼女の言葉に、どんなかたちで応じられるのか。
 紙を抱え、思いをめぐらせながら、東京へ向かう電車に揺られていた。

華雪 書家
1975年京都府生まれ。書家。立命館大学文学部哲学科心理学専攻修了。92年より個展を中心に活動。文字の成り立ちを綿密にリサーチし、現代の事象との交錯を漢字一文字として表現する作品づくりに取り組むほか、〈文字を使った表現の可能性を探る〉ことを主題に、国内外でワークショップを開催する。刊行物に『ATO跡』(between the books)、『書の棲処』(赤々舎)など。作家活動の他に、『コレクション 戦争×文学』(集英社)、『石原慎太郎の文学』(文藝春秋)をはじめ書籍の題字なども多く手掛ける。
作品収蔵先:高橋コレクション(東京)、ヴァンジ彫刻庭園美術館(静岡)、うつわ菜の花(神奈川)など。

「祈りの前」川内 有緒

 ええ、私の優しい父にべらぼうな額の借金があることがわかりまして、思わず家を出てしまいました。電車に乗って、でたらめに何度も乗り換えました。部活帰りらしき高校生たちに紛れて、一両だけの電車に乗りました。夕暮れ時にたどり着いたのは、夢にだって現れたことがない、私の育った街とはひとつも似たところがないような街でした。目の前には丘を巻く曲がりくねった道がありました。子どもたちは、夕焼けに向かって小走りに登っていくわけですが、腰の曲がったおじいさんは「おい! 丘陵、削ってんじゃねー」と呪いにも似た言葉を並べながら息を切らせて登っていました。
 私もつられて丘の上まで行くと、海の上にプカプカと浮かんだお椀のような形の街がありました。丘のてっぺんで古い土蔵や町屋が身を寄せ合い、時計屋さんとうどん屋さんと駄菓子屋さんがあり、子どもが自転車に一人で乗っていました。
 ぽつりと灯る明かりに「月の井旅館」の文字が浮かび上がっています。
「私、しばらくこの街に暮らしてもいいでしょうか」
 女将のような黒髪の女に尋ねると、「まずは出前を取りましょう」とうどん屋に電話をかけ、レコードをかけてくれました。ナット・キング・コールでした。
 鯨ヶ丘。
 それが、この街の名前だそうです。しかし、旅館の窓からは海の断片も見えません。
「いつか窓からクジラの形の雲が見えるかもしれませんよ、ふふふ」
 大きな黒い目をした女が笑いました。
 私はその街に暮らしました。大きな窓がある広い部屋で、遠くまでよく見えました。

一月五日。女の子が雪でかまくらを作っていました。おもちゃのラケットをスコップがわりにして、いじらしく雪を集めていました。クジラの形の雲はまだ見えませんでした。

三月二十一日。三月も終わりだというのに、お雛様のお祝いが町のあちこちで行われているようです。とんかつ屋さんにも立派な雛飾りがありました。私の育った街では、早くお雛様をしまわないとお嫁には行けなくなるとひどく脅されたものですが、あれは何だったのでしょうか。

四月三十日。道端にランドセルを背負った男の子が座り込んで、泣きじゃくっていました。
「今日妹か弟が生まれるのに、迷子になっちゃったよー。お父さんに怒られちゃうよ」
そう言うと、その子は一目散に坂を下りて行きました。彼は無事に妹か弟と会えたのでしょうか?

七月十九日。暑い日でした。女子高生三人が通り過ぎていきました。 「山セン、ちょームカつくよ。授業眠いし」 「ねーねー、あれ食べよーよ! 氷! 氷!」 「えーお金ないよ」 空に浮かぶのは入道雲でした。

八月十六日。ふと家に帰りたくなりました。いつも坂の上から下の世界を眺めていると、下の世界には得体の知れない楽しさを孕んでいるように見えるのです。坂を下りて駅に着き、切符を買おうとすると、中年でも若くもない女が向こうからやってきました。 「十年ぶりにこの街に帰ってきたのに、誰も迎えに来てくれなかった」と泣いています。私は改札をくぐる勇気を喪失しました。

九月二十五日。写真館の奥さんが突如として失踪したらしいのです。蔦が絡む素敵な写真館で、この街の子はみんなそこで七五三の写真を撮るのだそうです。奥さんは女スパイだったのよ、と黒髪の女将がこっそり教えてくれました。奥さんは、六十八歳だったそうです。

十一月二日。たくあんに夢中の男の人が庭先にぎっしりと大根を干していました。夕方その大根の一部が盗まれてしまい、男は足を引きずりながら犯人を追いかけました。 「待て、大根泥棒!」 という声が町に響きました。

十二月八日。雪の日です。しーんとしていました。雪の中、田中耕三さんの家の洗濯物がいつまでも干しっぱなしでした。どうしたのでしょう。

十二月三十日。駅に向かいます。さようなら、鯨ヶ丘。ついぞクジラの形の雲は見えませんでしたが、私は帰ります。

 この街では、いくら待っても娘からの手紙は届かず、しばしば誰かが家出し、赤ちゃんが泣き、頼りになる塗装店もあっさり閉店するわけですが、私はその街を愛しました。思えば、まだ一枚の写真も撮っていませんでした。  ああ、よくカメラを持ってうろうろしていたあのおじさんは、どうしたのでしょうね? あの帽子をかぶった無口なおじさんですよ。商店街から駅に向かう道でよく見かけたのですが。 「さあ。でも後に残った写真には、一つも色がついていなかったのよ」  女将がまたナット・キング・コールをかけてくれました。

 アンフォケッタボー♪

 そうですか、色のない鯨ヶ丘も見てみたかった。  うどん、好き、うざい、わーん! 赤ちゃん、氷、スパイ、泥棒! そんな無数のものでできあがった愛しき一年間でした。  今から電車に乗ります。

  

追記) 二〇一九年三月二十一日にメゾン・ケンポクで「記憶の中を歩く」というワークショップが行われました。参加者は、ある男性が約四十年前に撮りためたモノクロ写真を見ながら、そこに潜む物語を自由に「妄想」しました。この文章は、二十三人分(私自身を含む)の妄想を掛け合わせた完全なるフィクションです。ただし、鯨ヶ丘は現存する町で、写真に移された光景はかつて確かに存在したものです。大勢の妄想をミキサーに入れてガーっとブレンドしてみれば、本当にその町で起こったかもしれない何かができあがった気もしますし、全く別物になってしまったかもしれません。今となっては、全ては誰かの記憶の中に――。

川内 有緒 ノンフィクション作家
1972年東京生まれ。米国の企業やシンクタンク、フランスの国連機関などに勤務し、国際協力分野で12年間働く。2010年からはフリーライターとして評伝、旅行記、エッセイなどを執筆。自分らしく生きること、誕生と死、アートや音楽などの「人生の表現活動」が主なテーマ。著作は『パリでメシを食う。』(幻冬舎)ほか。「バウルを探して 地球の片隅に伝わる秘密の歌」(幻冬舎)で新田次郎文学賞、「空をゆく巨人」で第16回開高健ノンフィクション賞を受賞。現在は子育てをしながら、執筆や旅を続けている。

「私を育てたマザーフィールド」田切 美智雄

 私はカンブリア紀の山の中、日立鉱山の本山社宅生まれです。終戦の年の戦中生まれですから、戦争のことは親から聞いているのみです。社宅といいますが、四〜六軒入った長屋で、こんな長屋が本山の谷底や急傾斜地、山の尾根などに所狭しと並んでいました。日立市街は終戦間際の爆撃や艦砲射撃で壊滅状態でしたが、日立鉱山には全く爆撃は行われませんでした。ただ、時々グラマン戦闘機が谷筋に沿って低空飛行しながら機銃掃射したそうです。そのため、母は私を抱いて防空用のトンネルに逃げたり、家で布団をかぶっていたそうです。実は私にはもう一つ危機がありました。母のお腹の中にいた時、不動滝で土砂崩れがあり、同じ長屋の二軒を含め六軒ほどが埋まったり流されたりし、四名が亡くなっています。

 小学生の頃は一万五千人ほどが本山で暮らしており、本山小学校には二千人近い生徒がいました。日立市街より物資も豊富で文化に接する機会も多く、活気溢れる社会でした。道路とバス交通の整備はまだなので、子供達は本山から御岩山経由で玉簾まで徒歩で遊びに行き、里川で遊んで帰ってくるのが普通でした。春には金山までカジカ魚捕りに出かけます。金山は現在カンブリア紀の化石を探索している所です。本山から紅葉橋まで歩き、そこから尾根を一つ登って数沢川の上流部へ下ります。昔ここの綺麗な沢にはカジカがたくさんいました。夏休みになると歩いて大雄院まで行き、さらに鉱山電車で助川まで乗って、海水浴します。それもほぼ毎日です。帰り道の登りは辛かったですが、心身の鍛錬になりました。小学生も高学年になると野球はしたいのですが、本山には校庭以外には広場がないので、なかなかできません。鉄棒や砂場での床運動を遊びの中でやりました。蹴上がり、大車輪、空中前方回転、バック転などができました。

 中学は町の助川中学校に通いました。この頃にはアスファルト舗装され、バスは頻繁に運行されており、朝七時過ぎの超満員のバスに乗って通います。この頃は鉄筋コンクリート作りのアパートが沢山建ちました。私はローラースケートに熱中し、一番バスが通る前の五時すぎに本山から大雄院経由で杉本まで滑り下ります。マイカーが普及する前なので、車は全くなく、道幅一杯にスラロームしながら滑るのは緊張と爽快の連続です。大雄院から先は鉱山電車と競争です。しばらくすると、鉱山から危ないからやめさせろとの指令が出て、できなくなりました。中学校の部活は吹奏楽部、楽器はトランペットです。

 高校時代は水戸一高の吹奏楽部を創立して、毎日のように遊んでいましたが、進学が近くなるとストレスが溜まります。休みの日は下駄トレッキングでストレス解消が日課でした。素足に下駄履きで家から高鈴山を経て神峰山を越え、自宅へ戻るというコースです。ここを走って、自然の息吹、鳥のさえずりを感じると、ストレスは吹き飛んでしまいます。私にとって、カンブリア紀の山々はマザーフィールドなのです。

田切 美智雄 地質学者
1945年茨城県生まれ。茨城大学名誉教授。理学博士。東北大学大学院卒業。2008年、日立市の変成岩の一部が、日本最古の約5600万年前のカンブリア紀の地層であることを発表。茨城大学退官後も日立市郷土博物館特別専門員として、多賀山地でのフィールドワークを行う。現在は日本最古の地層から、日本最古の生物の痕跡を探しだす研究を日々続けている。あらゆる世代へのワークショップや講演、またジオネット日立のインタープリター育成など、生涯教育の普及活動にも力を注いでいる。

「タコ的な何か」鈴木 洋平

 数ヶ月前、路上でタコを見つけた。不意に出会うこととなった僕とタコ。結果としてタコ映画を作ることができた。そして完成後に千円札を拾った。これはご褒美だろうか。物語を作る類の人間の病気だろうか。僕はこんなことを繰り返している。今回は参加者と共にタコ的なものを求めて彷徨い歩くという素晴らしい機会を与えられた。

 もし何も発見できなかったらという僕の不安を消し去る花壇に突き刺さったリカちゃん人形。人形と花の組み合わせが花壇をカルト的な祭壇にように変化させていた。参加者はまだ楽しみ方を知らないようだった。まあ誰も最初からビールを飲まないしタバコも吸わない。それをやるかどうかは、半分は自分の意志、もう半分は道に落ちているのに気付いてしまうかどうかに掛かっている。タコ的なものは嗜好品に似ている。食い方を知れば、それなりに美味い。片方だけの靴っていうのはビギナー級だが、塀の上に置いてあるというだけで少し面白い。僕たちより前にこの靴を発見した誰かが塀の上に置いたののではないかと推理した。靴を無くした人へ対する配慮だろう。だが第一発見者の気遣いも虚しく、我々は不思議な感覚に陥る。気遣いとは関係なく、逸脱していく意図。ここに旨味がある。意図が逸脱していくことに。さらに歩みを続けると、また靴を発見した。今度はショッピングカートに置いてある。この街にスーパーはない。参加者は首をひねる。確かにそうだ。何か理由があるが、その過程を知ることはできない。僕たちは結果だけ見ている。結果として植木にぶら下がることとなったカツラを眺めるしかない。被る以外の意図を与えられたカツラ。カラスや猫を追い払うためか。そんなことでは納得できない。参加者は全ては僕が仕組んだ事だと不審に思ったに違いない。しかし僕が置いたのはアフリカ的な武器だけだ。残念ながらそれは余りに不自然だった。僕は恥ずかしくなり参加者にもそれを暴露した。本物はもっと巧妙にバランスを保っている。そして、不意打ちのクライマックス。朽ち果てた◯◯の中で大量の◯◯◯とニュートン(科学雑誌)発見したところで、この町歩きが終わった。

 一体何でこんなことをしているのか、甚だ自分でも疑問だと思いながら、小高い丘の上にあるメゾンケンポクから下界を見ていた。タコ的なもので世界は緩やかに構築されていくんだと思っている。逸脱した意図の成れの果てに立っている僕と鯨ヶ丘。リカちゃん人形やカツラがこの先も残っていくだろうか。しかし、この場所は見晴らしがいい。なんとなく、この場所が戦闘の拠点として優れているのではないかと考え始めた。見晴らしがいいから敵の様子を観察し易いし、入り口を限定することができる。それがこの地形の特性かもしれない。もし、仮に現代日本にテロリストが出現し、ここ鯨ヶ丘が彼らに占拠されたとしたらどうだろうか。太古の昔からこの地形が変わっていなかったとすれば、そうした事態が歴史上のどこかで起こったかもしれない。街への入り口を閉鎖し、空き家に籠城するテロリスト・イン・レジデンス。テロリストはアーティストと同じように場所を有効活用するだろう。もしくはそれ以上に。問題は、テロリストたちが出現したとして、彼らが一体どんな理念を持っているのかということ。それはまだ分からないがテロリストの映画を作りたいと思っている。それがこの街の特性を有効活用することなのではないか。もし仮にそんな映画が作れるとしたら、この街にタコ的なものとしてのテロリストをそっと置いてみたい。

鈴木 洋平 映画監督
1984年茨城県生まれ。多摩美術大学卒業。2014年、初の長編映画「丸」が海外の映画祭プログラマーや批評家の間で一躍注目を集めると、バンクーバー国際映画祭新人監督部門にノミネート、ウィーン国際映画祭、ロッテルダム国際映画祭に正式出品された。さらに名匠を輩出してきた映画祭「ニュー・ディレクターズ ニュー・フィルムズ」(2015)に選出されるなど、新人監督の作品としては異例の高評価を得ている。2018年短編映画「YEAH」がロッテルダム国際映画祭に招待出品される。現在は2本目の長編映画「ABOKKE」を制作中。